7月の福音のメッセージ

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年間第13主日 ルカ福音9章51〜62
  「船に火をつける」

vocaciones  スペイン語で『船に火をつける』という諺があります。これは16世紀の出来事に基づいて作られた諺で、「何かをしようと思ったら、前にゆっくり考えてください。そして、一度決めたらどんな困難にも負けないで、最後までやりとおしますように」という意味の諺です。この諺のもとになった出来事がありました。
 16世紀ピサロ司令官は、アメリカにわたる人々を募集して言われました。「一緒に行きたい人々は、ゆっくり考えてください。これは大変難しい冒険です。行く人は命がけのつもりで、最後までがんばらなければならないのです。」と。ピサロ司令官とその同僚たちは、長さ60mくらいの木の船に乗り、40日間の船旅の末に、南米の浜辺につきました。何回も、浜辺から陸に入ろうと試みましたが、いつも既にそこに住んでいたインド人に阻まれて、浜に戻されてしまいました。 同僚たちは、がっかりして、スペインに帰りたくなりました。しかし、司令官ピサロは、絶対にそれを許しませんでした。ある夜、彼は、皆が寝ている間に、スペインから乗ってきた船に火をつけました。翌朝、人々が目を覚めてみると、船は焼けてしまいスペインに帰ることが出来なくなりました。そこで、南米のインド人と交えて、死ぬまで南米に留まることになりました。
 今日の福音の中に、「鋤に手をかけてから、後ろを顧みるものは神の国にふさわしくない」という箇所があります。これは、二頭の牛の鋤を引っ張っている農夫は、溝が曲がらないようにずっと遠方の前を見て、牛がまっすぐ進むように導かなければなりません。後を向いていては、溝が真っ直ぐならないのです。この例えについて、もし、イエスが、21世紀の私たちに話したら、もっと現代人にピンと来る「高速道路の例え」を話したのではないでしょうか。それは、高速道路は、インターに入る前に、ゆっくり考えてルートを決め、途中で止まることも出ることも違った道を選ぶこともできず、最後まで決めた出口まで走り続けなければならないのです。
 さらに、今日の福音の中に、イエスの弟子になりたければ、「狐には穴があり、鳥に巣がある。だが、人の子に枕するところもない」と書かれています。イエスに従いたい人は、同じ厳しい生活をしなければなりません。あなたはそれが出来ますか? 決める前によく考えてください。また、イエスと一緒に道を歩もうと決めたら、例えば「待ってください父が歳を取っているから、父を見送るまで、葬るまで待ってください」また、「家族にいとまごいをしたい」などなど・・ということは許されません。 他の事に気を紛らわせないように。イエスの弟子になろうと思ったら、人々に迎えられない時に、仇をうって彼らの上に火を降らせ、滅ばされますようにと願ってはいけません。イエスの弟子になろうと思ったら、それがどんな難しい事であるかということを最初にゆっくり考えてください。 一度決めたら高速道路に入ったように最後まで、そして、船に火をつけたようにしなさい。(ルイス・カンガス神父)


年間第14主日 ルカ福音10章1〜9
  「一番大切な力は神から与えてもらう力」

宣教  12使徒は全イスラエル民族を表し、72人は全人類のシンボルであると言われます。そしてこの全人類に向かって、助け合うことのシンボルである二人ずつで遣わされます。 福音はイエス御自身を信じている人々の互いの協力によって全世界に広まっていくということです。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われます。この「収穫は多い」という言葉の意味は、救いに飢え、渇いている人が実に多いということではないでしょうか。牧者がいない羊のように疲れ果てている人々がたくさん存在するということ。このような状態に対する共感から派遣という働きが始まるのではないでしょうか。この愛に駆り立てられて現実の社会の中に入っていくこと。そして福音を宣べ伝えるとは、「平安をもたらす」ために出かけていくことだと思います。その遣わされる先は多くの反対と苦しみに出会う場だということをイエス様は明示されます。私たちの姿は子羊つまり自分の力としては力のない存在として描かれます。羊は自分の力で狼に勝つことはできません。羊飼いに守られてはじめて打ち勝つことができます。私たちも同じように神の力によってはじめて世の悪に打ち勝つことができます。問題があっても、自分のお金や持ち物で解決しようとするのではなく、一番大切な力は神から与えてもらう力だということ。そして私たちが持ちたい一番のもの、それは多くの反対にあっても心の奥底にある静かな落ち着き、平安です。貧しく、孤独であっても、その心が喜びにあふれている。苦しみを背負いながらも柔和に人々を受け入れ、希望と慰め、平和を与えていく。何も持たないように見えて、すべてを持っている。そのような平和の使徒になっていけたらと思います。(田丸 篤神父)



年間第15主日 ルカ福音10章25〜37
  「人を心のとなりびとにする 一生のチャレンジ」

善きサマリア人  キリスト教は愛の宗教だと、よく言われますが、きょうの福音書を読むと、まさしくその通りだと言わざるを得ないでしょう。イエスが明確にしているように、「思いを尽くして神を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」という道は、イエスの弟子が歩むべき道です。
 「愛の道はすばらしい」と言っても、いったい、可能な道なのでしょうか。相手への自然な魅力を感じさせる「気持ちの愛」のことなら、見えない神を愛するのは不可能に見えるかもしれませんが、信仰を基にする「自由な心の愛」もあります。神によって造られ、一日中守られ、ずっと愛されている確信をもっている人は、誰よりも恩人である神を喜ばせたい、「第一にしたい」という、恩返しの心は、不可能どころか、当然な態度でしょう。「思いを尽くして神を愛しなさい」という、キリスト教において促される心は、「神を第一にしたい」心そのものです。
 隣人への愛を考えてみると、「隣人を自分のように愛しなさい」の言葉は、「気持ちの愛」の観点から見れば、不可能だけではなく、全く不自然のように聞こえるでしょう。結婚相手、自分の子どもと両親、友だちなどを愛するのは、特に人間の心を充実させるものですが、知らない人、気難しい人、私を憎んでいる敵さえも(マタイ5.44) 愛するように命じられるのは、非人間的ではないでしょうか。「気持ちの愛」の観点からそうですが、信仰を基にする「自由な心の愛」の立場からどうなるでしょうか。
 同じ神によって造られたあらゆる人間に、天において同じ父があり、互いに皆が兄弟です。人類は、世界に散らばっている「神の子供」の家族です。ふつうの家族によくあるように、この家族にも気難しい兄弟、互いに気持ちの合わない兄弟がいますが、天の父は彼らのためにも太陽を昇らせたり、雨を降らせたりします(マタイ5.45)。彼らの兄弟である私たちは、その人に対してお父さんよりも厳しい態度をとるのはおかしいことでしょう。自然の気持ちが嫌がることでしょうが、信仰に基づいた「自由な心の愛」を活かし、人間であるからこそ、(敵を含め) 相手のことを積極的に考え、相手のために祈り、必要な場合相手を赦し、復讐の機会があってもそれを利用しないという態度は、十字架のイエスの模範に従い(ルカ23.34)、きょうの福音書のサマリア人の後につくことになります。ユダヤ人は、当時のサマリア人にとって、よりを戻せない、憎らしい敵でした。
 「愛の宗教である」キリスト教は、私たちが「神を第一にし」、人に心を寄せて「人を心のとなりびとにする」一生のチャレンジだと思います。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



年間第16主日 ルカ福音10章38〜42
  「人の心の内を察し理解し、いたわる心「愛」」

いたわる心「愛」  イエスが生涯を通して伝え生きたメッセージは、父なる神の御心を行うこと=愛そのものでした。今日の福音もその愛について語られ問われています。イエスをもてなすために忙しく世話をするマルタと、イエスを聴くために足元に座り耳を傾けるマリア。
この場面は、しばしば活動と観想という図式で理解され、祈りは最高のもの・働きは二番目といった区別と同様に、その価値のランク付けにもなっていた時代があり、その背景には天と地・観想と活動・霊魂と肉体という二元論からの影響といえるでしょう。しかし、本来のキリスト教にはこの二元論的解釈や、働きと祈りという価値区別はありません。神の目にとって価値あるものは「愛」なのです。愛がなければ、どのように尊い善行も無に等しく、また愛のあるところに神はおられるといえるでしょう。イエスはこの「愛」をマルタに問うているのでしょう。イエスの足元に座ってその言葉に耳を傾けるマリアの心に理解を示せないマルタに、イエスは問うているのです。  心は目に見えません。だからこそ、相手を察する姿勢がいるのです。目に見えない相手の心中には、苦しみ・悩み・飢え渇きの叫びがあるのかもしれないのです。その時のマリアにとってイエスを聴く・イエスと共にいることは、大きな救いだったのかもしれません。マルタには、マリアの心中を思いやる温かさが欠けていたのではないでしょうか。「必要なことはただ1つだけである。」身近にいる人・共に生活する人の心の内を察し理解していく。このいたわる心「愛」は、マルタに限らず人として必要なものではないでしょうか。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


年間第17主日 ルカ福音11章1〜13
  「"祈り"は、無くてはならない"生きる糧"」

Praying_Hands  "祈り"って何ですか?と時々いろいろな人から質問されます。おそらく彼らの問いの期待する答えには、日本人特有の"現世御利益主義"が隠されているのではないか、と時々考えさせられます。
 "祈り"、それはキリスト教的に理解するならば、「自己との出会いの時であり、神との出会いの場」であると言えるでしょう。しかし、残念ながら大勢の人々の期待する答えは、"祈り"とは「この世で物質的に恵まれ、自分の思い通りに事物が運ぶようになる」ことつまり、自分の"おねだり"を叶えてくれる願い事といったものを、祈りと考えているのではないでしょうか。
 イエスの弟子たちも、多分、そのように考えていたかもしれません。確かに、イエスは弟子たちに、神を「アッバ・父よ(幼子が父親に対して使う言葉)」と呼ぶように教えました。その理由は、"おねだりする子どもになる"ことではなく、神を威厳に満ちた存在としてでもなく、"親しく慈愛に満ちた方である"と言うことを、弟子たちに教え諭すイエスご自身の考えなのです。そこでイエスは、弟子たちに先ず"祈り"を通して、神に対する弟子たち自身の心の姿勢、自分自身の日常生活における態度を律することを教えられました。そして、弟子たちがイエスの教えに従うとき、神の力が弟子たちの中で働き、望みを叶えてくれると教え諭されたのです。なぜなら神は、人間よりも遙かに大きな慈愛に満ちたお方だからですと。
 したがって、弟子たちのようにイエスを信じ、イエスの教えを宣べ伝えようとする者にとって、"祈り"は、無くてはならない"生きる糧"となるのです。慈愛深き神に「父よ」と呼びかけ、常に「求め、探し、たたく」ならば、神は必ず、そうする者の望みを叶えられます。何故なら神は、すべてを知っておられるからです。私たちは、弟子たちの延長線上に置かれています。今日、あなたは"祈り"ましたか?  (松村信也神父)




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