2月の福音のメッセージ

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年間第5主日 ルカ福音5章1〜11
   「イエスの言葉に己の存在をかけるとき、信仰が始まる」

共同体といわれる舟の写真  聖書の中で語られる"舟"とは、一般に"教会"あるいは"共同体"を指していると言われます。今日の福音の中でイエスは、その"舟" の中に幾人かの弟子の候補者たちを乗せて、少し陸から離れたところまで漕いでいき、"舟"の上から岸に向かって群衆に話し始めました。 つまり、新しい共同体の始まりであり、その新しい教会の説教壇からの話と言えるでしょう。
 さて、話し終えてからイエスは、すでに太陽が真上に来ているにもかかわらず、シモンたちに向かって「網を湖に降ろしなさい」と言われました。普通、漁師でなくても一般常識として、漁(りょう)をするのは夜の間の仕事でした。それは湖面に浮かんでいるプランクトンを、魚が食べに夜水面に上って来たところを、網で捕るという漁の仕方でした。
 ところが何を思ってかイエスは、すでに太陽が真上に来ているのに、「網を降ろしなさい」と非常識なことを言い出したのです。そこで弟子の候補者である漁師たちは、イエスの言葉に不信を抱きました。また、その場にいた他の人々も皆一瞬、異常な会話を聞いて不思議がったのです。しかし、シモンはその異様な雰囲気の中で声を発します。「私は何もとれませんでした。でもお言葉ですから、私は網を降ろしてみましょう」と。
 シモンは自分が漁師としてのプライドや経験からではなく、イエスの言葉を信頼し「やってみましょう」と了解し、網を降ろしました。ところが半信半疑であったシモンの了解は、網に掛かったおびただしい魚で驚きに変わります。その結果、それまで自分の"生半可なイエスに対する信頼"から、"絶対的な信頼"への変化に圧倒され、思わずイエスの前にひざまずいたのです。そして、驚愕のあまり「主よ、わたしから離れて下さい・・・・・」と告白します。シモン同様、その場にいた人々も皆ひれ伏しました。そして、その時からシモンと仲間は、自分を捨ててイエスに従う者となったのです。
 現代社会に生きる私たち、その私たちにとって闇雲にただ信じると言うことは難しい限りです。しかし、イエスの言葉、その言葉に己の存在を賭けるそのとき、信仰が始まるのではないでしょうか。


年間第6主日 ルカ福音6章17、20〜26
  「神様は今苦しんでいる人々を決してお見捨てにはならず、
必ず苦しみが栄光に変わるときが来ます。」

雪の冷たさに耐えて咲く春の花  最近思うことの一つとして、私たちの周りで起きている悲しい出来事の中には本当に祈りしか解決がないということがたくさんあるということです。子どもたちの自殺、さまざまな事件、どれも悲しくそして単純な解決策がないという現実を背負っていかなければならないきびしい状況がそこにはあります。祈りしかない、祈ることしかできない、でもその祈りが実はとても大切なのではないかと思います。祈りがすべてを解決するわけではないかもしれません。でも私たちが忘れてはならないことは、この世は人間の力だけによって動いているのではないということです。神がおられるということ。そしてその神の姿を神の子であるイエス様が示してくださったのです。今日の福音でイエス様は「貧しい人々は幸いである、今飢えている人々は幸いである、今泣いている人々は幸いである。」とおっしゃっています。この世の価値においては決して幸いに思えない状態や姿が、神の目には幸いと映る。それは十字架の愛をとおして死の状態から真のいのちに移られたイエス様の過ぎ越しの神秘とつながります。神様は今苦しんでいる人々を決してお見捨てにはなりません。必ず苦しみが栄光に変わるときが来ます。だから苦しくてもあきらめず、皆で手を取り合って希望をもって歩むことです。全能の神様が幸いを約束してくださっています。苦しみや困難の中にあるとき、「これでいいんだ、負けたらだめなんだ」と自分に言い聞かせることができる人は幸いです。苦しみの中にも信仰をもって歩み続ける人を神は必ず栄光に上げてくださるでしょう。今自分はどんな心で歩んでいるか省みてみたいと思います。


◆年間第7主日 ルカ福音6章27〜38
  「イエスが求める愛は、行いによって示される愛の心、、
敵を含め相手の善を求める自由な心」

憐れみ深い者となりなさい  「どうしてキリスト教は『愛の宗教』と言うのかな」と不思議に思っている人には、きょうの福音書を読むように勧めましょう。 そこでは、イエスは、『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』と、弟子たちに言いつけますし、『あなたがたは敵を愛しなさい』とも命じられます。では、この言葉を少し深めてみましょう。
「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」という行動基準は、「黄金律」とも言います。一方、「人にされるように、人にしなさい」との基準もあり、これは悪い相手に対して復讐を許す最小限の行動基準です。 これに対して「人にしてもらいたくないことを、人にするな」と、「銀律」と言われる基準もあります。実は、わが国の教育のかなめとなる「人に迷惑をかけるな」とは、銀律自体です。
イエスの黄金律はすばらしく、これが、一般社会の行動基準になったとすれば、この世は「平和の世」、いや、「天国そのもの」になったでしょう。しかし、人間にはそれができるのでしょうか。
 私たちは、敵に対して、「友だちになっていただきたい」、「愛していただきたい」と思うでしょう。そのような場合、黄金律は「敵を愛しなさい」ということになります。イエスは例を重ねて述べ、自分の弟子がこの愛の心を育てなければならないと、口をすっぱくして強調されます。しかし、私たちは、「それは不可能だ、非人間的だ」と反応するかもしれません。いったい、「敵を愛する気持ち」になれるでしょうか。
 針で体を刺されば痛く感じます。侮辱をかけられると、鋭い痛み、なお憎しみさえも感じます。しかし、こう感じながらも、神の子どもであり私の兄弟である相手のために祈ったり、恩を与えたり、親切に付き合ったりすることはまだできます。敵を赦された十字架上のイエスを思い浮かべながら、「父よ、心が痛いけれども、私の兄弟だから、相手を赦させてください」と神に願うこともできます。イエスが命じられる愛は、非人間的な「愛の気持ち」ではなく、行いによって示される愛の心、敵を含めて相手の善をもとめ続ける自由な心です。「愛の宗教」と言われるキリスト教は、このような宗教です。(J.M.バラ記 ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


◆四旬節第1主日 ルカ福音4章1〜13
  「命の生き方を人との関わり、神との関わりの内に見直し深める時、
揺るぎない信仰への土台を頂き直す恵みの時」

人はパンのみで  今週から四旬節に入ります。一人一人が自己と本音で向き合い、今の命の使い方(生き方)を人との関わり、神との関わりの内に見直し深める時です。言い換えれば、自分の人生の内に働き続けて下さっている神様に『ありがとう』と『ごめんなさい』そして『お願いします』と内的姿勢の軌道修正を願いながら、揺るぎない信仰への土台を頂き直す恵みの時でもあります。 それは、父である神によって全く新しい形の命へと復活させられたイエスと共に、新しい人として生きたいが故の、神との対話なのです。
 今日の福音書は、イエスの対話(本音)が語られています。そして、その本音の奥から、『頂き受けた命を肚の底から本当に生かしたいなら、あなたは人として何を選ぶの?』というイエスの問いかけと、『一緒に歩もう!』というイエスからの誘いが重なって聴こえてきます。本当の意味で命を生命化していくには何が大事なのでしょうか....。 その選びは一人一人に任されています。だからこそ、肚まで降りて本音の対話がいるのです。 肚の底では、いつも待っていて下さる神様がいますから。 神の方へ心を向き直すことを、ギリシャ語で<メタノイア>といいます。『メタノイア逆から読むとアイノタメ』と、私の授業の中で詠んだ生徒がいました。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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