12月の福音のメッセージ

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待降節第1主日 マタイ福音24章37〜44
  「アドヴェントス 来る方を迎える準備をする」

 私が子供のときに、スペインに内戦があってA側とB側に国が二つに分かれていました。AとBを分けている線に、両側の兵隊が塹壕を作って互いに戦っていました。その線を越えた反対側に簡単に渡るのは不可能でした。反対側に行く方法は、隣の国フランスに行って、フランスからスペインの反対側に渡る方法しかありませんでした。 たまたま内戦が始まった時、私はAに居て、両親はBに居ました。反対側で何が起こっているのかをわかる術がお互いにありませんでした。私は両親のことを非常に心配して、とても会いたく思いました。 ある日、フランスに渡った両親から電話があり、「無事にB側から出て、すぐにあなたに会いに行きます」と。 その日から、私は両親を待ちに待っていました。翌日、両親が来ました。母は何も言わないで泣いて、長い間私を抱いていました。
 今日から待降節がはじまります。キリストのご降誕を待つ節です。 「待つ」の心は、バスが来る事をイライラして待つような待ち方ではなくて、期待を持って反対側から来る両親を待つような心を持って、生まれるイエスのご降誕を待つことです。
 旧約時代の人々は、救い主の到来を、首を長くして待っていました。メシアが来られる時には、戦争が平和に変わり、刀は、既に不必要であって、刀の鉄を溶かして、鎌と鋤を作ることになると、今日の第1の朗読に書いてあります。 今日から始まる待降節は、ラテン語で「アドヴェントス」(AD VENTUS)といいます。アドヴェントスは、来る方を出迎えると言う意味です。出迎える事は、来る方に会いに行く事です。積極的に準備し、心を整える事です。キリストがスムースに来られる事ができるように、その道を整えるように洗礼者ヨハネは、人々に訴えました。曲がった道を真っ直ぐにする意味は、曲がった心を捨てて、素直になることです。威張って高い山のような心を持つ人は、低くして謙遜になることです。これがアドヴェントスです。つまり、来られるイエスを出迎える事です。 (ルイス・カンガス神父)




待降節第2主日 マタイ福音3章1〜12
  「心の準備は、心の中にイエス様をお迎えする場所を用意すること」

 私たちは今、主の降誕を迎えるために心の準備をする待降節を過ごしています。その過ごし方として大切なことは、自分の中にある闇、そして私たちが生活しているこの社会の中にある闇を見つめることだと言われます。自分の中にある闇、そして社会の中にある闇を意識している人こそ、そこに光として、救い主として来てくださる神の御子のありがたさ(ぬくもり、あたたかさ)がわかるからです。今日の福音に登場する洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れて自分の後に来られる真の光について証ししました。そして人々に悔い改めを呼びかけました。真の悔い改めとは自分のありのままの姿を見つめ、そこから神様に心を向けていくことです。ある方が「神様の愛を直接肌で感じてみたい」と言われたことがあります。神が愛であるなら、その愛を見えるかたちで示してほしいということです。しかし神の愛は目で確かめるようなことではなく、一人ひとりが素直な心になって、謙虚な姿勢で自分のありのままの姿を見つめ、自分の小ささ、足りなさを認めていくとき、その自分を支え、励まし、見守ってくださっている目に見えない存在が確かにあることに気づいていくということではないでしょうか。
 待降節の間、私たちは心の準備の一つとして赦しの秘跡を大切にします。なぜ赦しの秘跡が必要なのでしょうか。それは自分の中にある闇を見つめ、自分も神様の光が必要であることを認め、神様の光に照らしていただくためでしょう。イエス様がお生まれになったとき、宿屋には場所がなかったと聖書にあります。その宿屋は私たちの心を表していると考えることができないでしょうか。私たちの心が自分のことだけでいっぱいになっていたら、泊まる場所を求めて訪れて来られるイエス様をお迎えすることができないということ。だから自分の心の中に、他者のための場所を持っている人になるということ。クリスマスを迎える心の準備とは、自分の心の中にイエス様をお迎えする場所を用意するということです。 (田丸 篤神父)



待降節第3主日 マタイ福音11章2〜11
  「主の足跡をつけて行きましょう」

 多くの場合、マタイとルカはマルコ福音書から内容を借りるのですが、きょうの福音はマルコには見えません。マタイとルカ(7.18−28)だけのエピソードです。聖書学者は、マルコ以外のこの二人の共通資料を、Q-資料と言います。
 福音の内容は明らかです。イエスの行動を見て、その言葉を聞いていた洗礼者ヨハネの弟子たちは、ナザレのイエスは国が待ち望んでいるメシアなのかと疑っています。そして、それについてヨハネ先生に報告します。やはり、ナザレのイエスは、国民の待ち望んでいるメシア、ローマ人の圧迫から国を解放する将軍ではありません。それどころか、ローマ人の協力者の徴税人と罪人に好意をかける人です。それだけではなく、ヨハネ先生が預言した厳しいメシア、「良い実を結ばない木は、みな切り倒され、火に投げ込まれる」(マタイ3.10)ようなメシアでもないと、弟子たちが報告しました。
 歴史著者ヨセフスによると、29年に領主へロデ・アンティパスはマケラス城砦にヨハネを投獄しました。そこに報告しに来た弟子たちの疑問を取り除くために、ヨハネ先生はイエスのもとに彼らを送り出しました。考えてみると、彼らに(もしかすると、ヨハネ先生にも)イエスのアイデンティティが分からなくなったということは、驚くに当たらないでしょう。ヨセフと母マリア(ルカ2.48−50)、また、弟子たちにも(マタイ8.14−17、ルカ24.25−27、ヨハネ16.16−18)そのような体験がありました。場合により、私たちもイエスに対してさまざまな疑問を感じるでしょう。それを解く道は一つしかないと思います。個人の祈りにおいて直接にイエスに質問すること、または、イエスと密接なつながりのある教会から疑問の解決を教えてもらうことです。
 不思議なことに、「メシアであるかどうか」と率直に聞かれたイエスは、直接「イエス」か「ノー」とは答えません。そして、聖書(イザヤ26.19、29.18−19、35.5−6、61.1)の数箇所を引用します。私たちにも、疑問の解決を聖書から求めるようにと、無言のまま招いていらっしゃるではないかと思います。
 イエスの答えによると、自分がメシアであることを確実にするのは、心身ともに人をいやす力を持つこと、死んだ体と心をよみがえらせること、社会がないがしろにする貧しい人々に優先的に救いの便りを知らせることです。きょうの福音においてイエスが特にほめてくださったヨハネ洗礼者の姿を思い浮かべながら、主の足跡をつけて行きましょう。日々の生活において「いやしの人」、「希望を与えて他人を復活させる人」、「貧しい人に生きがいを与える人」になれば、時々疑問に襲われても、必ず私たちもイエスにほめられることになります。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



待降節第4主日 マタイ福音1章18〜24
  「その名はインマヌエル。私達と共におられる神」

 いよいよ典礼も待降節最後の主日となりました。主のご降誕を前に今日の福音箇所マタイでは、救い主イエスの誕生をヨセフの立場からとらえようとしています。私には、ヨセフ自身の信仰への旅路と、識別の深さが聴こえてくる箇所です。「マリアが聖霊によって身ごもっている」ことを知ったヨセフの戸惑い。「神の前に正し人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まない」ヨセフの深い愛。「ひそかに縁を切ろうとする」ヨセフの躊躇しながらの決断。人知では計り知れないほどの出来事に直面した時の葛藤が、痛いほど伝わってきます。ですが、この葛藤は夢に現れた天使の言葉から変化がみられます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。ヨセフはこの言葉の奥に、神がかつてアブラハムに向けた誓い「お前の子孫から救い主が誕生するであろう」とした、イスラエルの希望し続けてきた救いの歴史―アブラハムからイサクが生まれ、ダビデを経てようやくヨセフに至った―その誓いが歴史を通して具現化されようとしている今を悟ったからこそ目覚めたように感じます。その言葉を通してヨセフはまさにその成就の瞬間に立ち、「ダビデの子ヨセフ」と呼びかられていることを受け取り、旧約の歴史を貫く神の大いなる愛に再び触れ、大きな喜びとを持って静かにこの出来事を受諾できたようにも思います。 「その名はインマヌエル。私達と共におられる神」。見えない神の慈しみが、見える命となって来て下さる恵みの時を、ヨセフの思いと共にご降誕の神秘を頂きましょう。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)





聖家族 マタイ福音2章13〜15、19〜23
  「ヨセフの神に対する従順」

 今日の福音で注目されるのは、イエスの父であるヨセフの神に対する従順です。イエスの誕生から、すでにヨセフの従順は始まっていたと言うよりも、ヨセフの神に対する畏敬と彼に現れる"不思議な夢(出来事)"に対して、否定的、挑戦的な態度ではなく神の声に委譲的、受容的な態度であることです。確かに、聖書解釈によると「エジプトへの避難はただの逃避行ではなく、神の救いの歴史を完成に近づかせるための出来事である」と書かれています。またエジプトからの帰還も「イエスが人々を導いて救いへと導く者となるため」の予見的出来事とあります。しかし、ヨセフの神に対する姿勢は、キリストを信じる者に対する日常生活での神に対する姿勢を示唆しているのではないでしょうか。神の呼ぶ声にさえ"あまのじゃく"な態度で己を誤魔化し、屁理屈を並べて正当化する醜い者の姿勢とは、あまりにも対照的であるがゆえに、ヨセフの姿勢が輝いて見えるのではないでしょうか。ヨセフも私たちと同じ人間でありますが、異なる点は、恐ろしい状況の中で不安に押しつぶされそうになるときでさえ、さらに一層神への信頼を強くし、神から受けた夢の中での指示を忠実に果たすことです。常に不安だから、恐ろしいから、無力なヨセフだからということではないだろう。否、それ以上に、ヨセフの神への信頼がそうしたといえるでしょう。私たちの目には、困難と不安といったものをそれほど感じないのですが、ヨセフ自身の神への信頼は、常に神のみ心が、イエスと共にあり、イエスを通して神の救いの計画が実現されることを心から信じたからです。したがって、ヨセフは神への強い従順によって神の出来事に躊躇なく参画するのです。つまり、神との約束の地への新しい旅立ちの日を彼はすでに始めたのです。
(松村 信也神父)



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