8月の福音のメッセージ

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年間第18主日 ルカ福音12章13〜21
  「man for others」

 ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは作物を他人と分かち合わないで、大きい倉を作って自分ひとりで幸せな生涯を送るように作物をしまいこんだ。しかし、その夜亡くなった。 今日の聖書の中では、イエスは金持ちを責めるのではなく、閉じた心の金持ち、けちな金持ちすなわち自分が持っている者を他の人々と分かち合わない金持ちを責める。
 今日は、あるインドのたとえ話を紹介する。 ある青年は、袋を背負って村に入る隠遁者の夢を見た。 袋の中には大きなダイヤモンドが入っていた。 夢が強烈だったので、青年は隠遁者を探しに出かけた。夢で見た、全く同じ姿、同じ顔、同じ袋が実際に自分の目の前に立っていた。青年は隠遁者に「その袋の中にダイヤモンドがあるでしょう」「はい」と隠遁者は答えながら、袋の中を開けて物を出し始めた。パン屑、靴下などなど・・、そして大きいダイヤモンドを出した。青年の目は皿のように大きくなった。隠遁者は「欲しければどうぞ差し上げます」と言いながら、青年にダイヤモンドをあげた。青年はダイヤモンドを取って興奮して走った。自分の村に行ったら盗まれるだろうから他の村に行こう。道で人に会うたびに心配して逃げた。食事を買いに店に入っても怖くて食べなかった。夕方になった。青年は疲れきって考えた。ダイヤモンドをもらってから不幸になった。青年は思い切って隠遁者を探して、隠遁者に言った「ダイヤモンドを返します。その代わりにあなたが持っている愛着のないあの寛大さを下さい」と言った。
 イエスは金持ちを責めない。イエスは金持ちであったラザロ・ニコデモ、アリマタヤのヨセフなどと友だちであった。彼らは十字架の足元で自分の友だちであったイエスに使徒たちより最後まで伴った。また、イエスは、寛大に自分の財産の半分を貧しい方々にあげた金持ちであったザカイを誉めた。イエスは、自分の門前に病気で飢え死にするラザロを「無視するお金持ちを裁いて、地獄に行った」と話しました。
 今日、世界で一番大きい財産を持っている人は、ビル・ゲイツご夫妻です。ゲイツご夫妻は、アメリカで宮殿に住んでいるが、毎年貧しい国に行って、数日の間貧しい人々とともに生活し、ご自分の財産の大部分をエイズの患者、飢えている人、勉強ができない弱い人々のために寛大に差し上げる。来年からゲイツご夫妻は、マイクロソフトを手放して、困っている人を助ける為に自分の生涯を捧げる事を決めた。世界一の金持ちゲイツご夫妻は、福音的な心を持っている。
 現代はグローバリゼーションの時代だ。グローバリゼーションの良いところは、人類をますます一致させる。そして、生産が豊かになる。しかし、一方悪いところもある。人間の最高の基準は、本来は「人間の人権、尊敬、愛、宗教、正義、平等」であるはずなのに、グローバリゼーションは最高の基準を人間より「生産、利益、能率、競争、お金」においている。競争によって豊かな人はますます豊かになり、貧しい人々はますます貧しくなる。協力できない人は排除される。これによって貧富の差は、年月がたつにつれてひどくなる。  今日の典礼は、私達がイエスのようにman for others、 他人に生きる、他人を生かす人であるように勧めて下さる。(ルイス・カンガス神父)




年間第19主日 ルカ福音12章35〜40
  「いつも目を覚まして待っていなさい」

扉をたたくイエス  「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」。ともし火をともし、目を覚ましていること。私たちの人生の歩みはこのような姿で生きるように神の子であるイエス様から呼びかけられているのだと思います。目を覚ましていること、それは昼間であれば誰でもそんなに努力しなくても目を覚ましていることはできます。しかしそれが真夜中、夜明け近くになると、目を覚ましていることは簡単なことではなくなります。イエス様はあえて家の主人が帰って来るのが、真夜中、夜明け近くになるかわからないと言われて、目を覚ましていること、つまりこの世において私たちが神の言葉を心に留めて生きることが、そんなに簡単なことではないことを示してくださっているように思います。 しかしそれを認めた上でそれでもイエス様は目を覚ましていなさいと言われます。そこに私たちへの熱い思いがあるからでしょう。そして同時に目を覚まして主人の帰りを待っていた僕たちを主人は席に着かせて自ら給仕してくれることを示されます。日常では主人が僕たちのために給仕することは考えられません。しかしイエス様はあえて主人が帯を締めて、僕たちのそばに来て給仕してくれると言われます。それは主人にとって目を覚まして自分の帰りを待っていてくれた僕の姿は何にも代えられない喜びで、自ら彼らをもてなさずにはおられない心境を表そうとされているのだと思います。主人は目を覚まして待っていてくれる僕の姿を見つけたい思いで帰ってきます。救いとは目を覚まして待っていた僕とそれを見つけるために帰ってきた主人とが出会う喜びのことを言うのだと思います。私たちもこの世で与えられた生命を主人を迎える忠実な僕たちのように目を覚まして、何が神様の目に価値あるものとして映るかよくわきまえて生き、真の救いの喜びを味わうことができたら幸いです。(田丸 篤神父)



年間第20主日 ルカ福音12章49〜53
  「福音の勧めに従って生活さえすれば、全世界の社会に平和が必ず確保される」

福音のメッセージに従い生きよ  今週のルカの福音は短くて、長い説明が必要でないと思いますが、イエスの三つの面白いロギオン(短い話)が出てきますので、簡単にそれについてふれましょう。  まず、イエスは「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われました。聖書の好きなある消防者がこれを読んだ時、「大変だ。このイエスは放火魔ではないか」と、思わず反応するかもしれません。 しかし、イエスが話している「火」はその火と違い、「熱心な愛」の火です。「互いに愛しなさい」としきりに勧め続けたイエスは、こうした愛を全世界に燃え立たせるためにこの世に下り、その火が既に燃えていたらと、願ってやみません。
 第2のイエスのロギオンは、「受けねばならならない洗礼がある。」という言葉です。イエスがここでふれている「洗礼」は何でしょうか。心を洗うつもりで洗礼を受けた大昔の人びとは、プールか小川の水の中に身を沈め、すぐ立ち上がりました。現代も、洗礼を受ける正統教会の信徒は、三度もそれを行い、こうした典礼には、パウロがきれいにまとめた(ロマ6.3-5)深い意味があります。水に沈むと、水の中で葬られ、前の「罪の生活」は死んだことを意味します。そして、立ち上がると、新しい命を迎え、復活されたイエスの命によみがえるということになります。イエスがここでふれる洗礼は、「水に沈み、水から立ち上がること」、いわば「水の洗礼」ではなく、「苦しみの洗礼です」。イエスは受難と十字架の苦しみに沈み、復活したとき、その苦しみから立ち上がられます。
 第3のロギオンは前の二つよりも少し長いです。「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と。 マタイの平行箇所(マタ10.34)には、「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と書いてありますが、ルカのロギオンと同じ意味です。このロギオンは人の誤解を招くかもしれませんが、天の父と兄弟の人間への愛を主張する福音は、「平和のメッセージ」です。人間が福音の勧めに従って生活さえすれば、全世界と社会の平和が必ず確保されます。しかし、イエスを全く知らない多くの人がいますし、知っていても、イエスを認めたくない人もいます。信者はどうすべきでしょうか。世界、日本、各家族の乱れのない調和を守るためにイエスの言葉に耳をふさいだ生き方をしてもいいのでしょうか。イエスの今日のロギオンを聞き、その上、近いうちに福者となる188人の殉教者の模範を考えると、それは理にかなった態度ではないでしょう…
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



年間第21主日 ルカ福音13章22〜30
  「神の御心を生きること」

Norrow and wide gates  今日の福音は、神を信じている事と、神の御心を行っている事とが結び合っている信仰生活ですか?と、問われている内容です。
 エルサレムに向かって進んでおられるイエスに「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた人に「狭い戸口から入るように努めなさい」と答えています。 狭い戸口とは、どういうことなのでしょうか。今日のルカ福音箇所と同じ内容(平行箇所)が、マタイの7章にあり「主よ、主よという者が皆、天の国に入るわけではない。神の御心を行っている者だけが入る」という言葉につながります。つまり狭い戸口とは、神の御心を生きる事が魂からの救いにつながっているようです。 律法を知り・よく祈り・聖書の教えも分かり社会的にも宗教的にも模範生であるかのように自負している当時の人々に向けて、イエスはこの言葉を問いかけています。現代風に言えば、教会によく通い・奉仕活動にも熱心で・教養も学歴もあり社会や家庭の務めを立派に果たしている人達になるのかもしれません。勿論、素晴らしいことですが「人間的落とし穴に注意しなさい」と、現代の私たちにイエスは問うている様にも聴こえます。人の心の奥底に潜んでいる傲慢な傾きに気をつけないと、神との出会いを見失ってしまいます。自分にも相手にもある弱さを知り、赦しあえる神の謙遜に生きる時、人は「狭い戸口」に立てるのでしょう。
 エルサレムという場は、イエスの受難と死と復活の場です。一人一人が、そのエルサレムに向かってイエスと共に歩む時、平安という戸口が見えてくるのかもしれません。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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