4月の福音のメッセージ

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シュロの葉と十字架受難の主日(枝の主日) ルカ福音23章1〜49

 ここ数年、受難の主日を迎える頃になると2000年南ドイツで観た受難劇を思い出します。特に、印象的だったのが今日の福音の場面でした。
十字架  舞台で演じる村の役者さんと1,000人以上の観客が、真にその時一体となりその受難の場面を演じていたからでした。そして、イエスが十字架に架けられた時、大きな悲鳴と泣き声が、会場の到る処から場内に響きました。それまであまり意識しなかった己の罪深さに気づかされ、また神の愛をイエスが、ご自身の命までも捧げて伝えようとしたこと、そこまで徹底的に自分を愛してくれていたのに、自分はそのことを十分理解していなかったことなど想起させ、すべての人々の心を強く揺さぶる自己への嘆きの声でした。  なにゆえに、そのような過酷な迫害にイエスが耐え忍ぶことが出来るのか、それが受難劇を観劇するまでの疑問でした。 そして今日、改めて福音を読むとき、当時の情景と併せてイエスの受難の意義を再認識した。
 イエスがその迫害を甘受できたのは、祈りにおける神との出会い・親密な交わりによって、神の言葉をとおして神の思いを十分に知っていたからでしょう。つまり、その時、苦しみに対して逆らうことなく、甘受することを。  苦しみを担うことこそ、神の計画であることを、それに協力することがイエスの使命でした。 十字架上におけるイエスの死、それはすべての人の罪を贖うことであり、そこに神の愛が示され、十字架は"神の愛のシンボル"であると永遠に伝え続けるためだからです。(松村 信也神父)



復活の主日 ヨハネ福音20章1〜9

 主の復活おめでとうございます。時々なぜ復活は喜びなのだろうかと思う時があります。そのことを少し話したいと思います。マグダラのマリアが今日の福音のはじめに出てきます。 The Empty Tomb 彼女が墓に行った理由、それはイエス様を自分の手でもう一度手厚く葬りたかったからだと思います。彼女にはイエス様の死が残念でならなかった。そのように思っていた人がいたこと。十字架につけろと叫んだ多くの人も、実際はその意味はわからず、その時の興奮状態の中で群集心理に扇動された行動だったかもしれません。そして事が成し遂げられたとき、皆これでよかったと感じた人は誰もいなかったのではないでしょうか。人間にはそのような面があります。何かに扇動されてわけもわからず興奮状態のままにとってしまうこと。しかしマリアは違っていました。マリアのイエス様を思う心は一途なものでした。この方だけが自分を責めず、逆に自分の苦しみを理解し、理解することでそこから立ち上がらせてくださった唯一の方だ。 それからマリアはイエス様に聞き従っていきます。そのマリアにとってイエス様の死ほど悲しいものはなかったでしょう。あれほど信頼していた方がもうおられない。会って話すこともできない。せめて今自分ができることはイエス様をもう一度手厚く葬り直すこと。そのために朝早く墓へ行ったのです。でもその墓は空でした。そして墓で泣いていたマリアに復活されたイエス様が現れてくださいます。マリアにとってそれは何にも代えられない喜びだったでしょう。イエス様を心から愛し慕っていた者こそが味わう復活の喜びでしょう。私たちも同じような心でイエス様の復活を喜ぶことができたら幸いです。
(田丸 篤神父)



復活節第2主日(神のいつくしみの主日) ヨハネ福音20章19〜31

 イエスは、復活された日非常に忙しかった! 朝早くマグダラのマリアに現れ、エマオ村に帰る途中の二人の弟子に伴い、ペトロにも出現されました。その日の夕方、ユダヤ人を恐れて最後の晩餐の部屋に鍵をかけた使徒たちにも現れました。
 きょうの福音書の前半はその出現の物語です。ルカ福音(24.36~43)にも同じ場面が描かれています。 イエスの最初の「平和のあいさつ」はヨハネの福音と同じです。しかし、ルカの福音によれば、使徒たちを納得させるために、多くの証明 ―魚をめしあがるなど― を示さなければなりませんでした。 一方、ヨハネによると、イエスは、ただ、手と脇腹の傷跡を見せるだけで彼らを説得されたようです。 空の墓でイエスの体を覆った布を見て、その瞬間にご復活を信じたヨハネ(20.8)は、他の使徒たちよりも、「信仰の鋭い」心を持っていたに違いないと思えてなりません。
 福音書の後半において、ヨハネは、一週間前の出現に立ち会わなかったトマスのエピソードを取り上げます。なぜトマスは一週間の間、復活したイエスを見た仲間同士を信じなかったのでしょうか。イエスを深く愛し、イエスと一緒に死ぬ覚悟ができたトマスであったのに…
イエスは再度現れた  確かに、個性が強く頑固なところのあるトマスだけに、「見なければ、いや、傷跡に触れなければ、信じない」という彼の行動は、トマスの性格から説明できるでしょう。 また、私の推測に過ぎませんが、次ぎのように考えることもできるのではないでしょうか。 つまり、勇敢なトマスは、気を落としていた使徒たちと落ち着きのない婦人たちの状態を見て,彼女たちがイエスの墓に行く前に、町に出ました。誰か(ベタニアのマルタとマリア?)にお金を頼み、「晩餐の家」の大きな共同体のため買い物をしなければなりません。  そのようにして、共同体の世話を一日中続けたトマスは、夕方に家に戻ったところ、復活したイエスが皆に現れたと聞きました。  しかし、一日中共同体のために全力を尽くした自分だけには、イエスは現れませんでした。このことを、ひどく差別されたと思い惨めに思ったトマスは、その心理状態を乗り越える努力をするために、ひっきりなしに「復活していない」と主張するしかなかったのでしょう。 一週間後、弟子たちと一緒にトマスも居た時、再びイエスが使徒たちに現れました。その瞬間、トマスの「差別されたという気持ち」は全て消え去り、「私の主、私の神よ」と告白するほどに深い信仰を示しました。こうした推測を、皆さんはどのように思われるでしょうか?
(J.M.バラ(益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



復活節第3主日 ヨハネ福音21章1〜19

「私に従いなさい」
 輝かしく喜ばしい復活祭とその八日間を終え、典礼は復活節第3週目。仮に生活リズムに例えると、大感動後の活気が半ば惰性へと流れてしまいがちな境目かもしれない。そのような中、今日の福音はヨハネの21章が読まれる。
ヨハネ21章miraculous catch of fish  この章は、後に加えられた付録であろうといわれている。20章で一応完結している内容に何故、この一章が加わえられたのだろうか。私には、人間の弱さこそ受け止める愛の神が聴こえてくる。イエスの復活物語は四福音書に記されているが、ガリラヤに戻った弟子達の生活を記している福音はヨハネだけである。私はこの章の行間に、弟子達の内的葛藤や信仰の陰りを読み取る思いだ。 弟子達は召される前と同じような素朴な漁師の姿に戻り、漁に出る。 しかし、一晩中働いても魚は一匹もとれず、実りのない働きに心身は疲労困憊する。 聖書は「イエスは夜明けから”すでに”岸に立っておられた」と語る。
 私達も目先の成果で一喜一憂することがある。復活の主は”すでに”立っておられる。暗夜の中にこそ、”すでに”イエスの現存があることを伝えている。 人間的な常識や思いをはるかに超えた希望の光そのものの復活の主が、共におられることを再度呼びかけた章でもある。上着をまとって湖に飛び込み、イエスのために命をも捨てると宣言し、三度イエスを知らないと拒むペトロの中に生きている人間的弱さ、醜さは私達の中にもある。だからこそ、イエスは”すでに”立って待 ち続け、日々「私に従いなさい」と、希望の力復活の主は恵みの呼びかけを下さっている。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



復活節第4主日 ヨハネ福音10章27〜30

 今日の福音では、羊が譬えで語られます。我が国で羊は、動物園あるいは特定の地域において放牧されているのを見ます。したがって、一般の人には、羊の生態といえば昼間放牧され、夜になれば牧舎に入れられるのが、共通理解ではないかと思います。ところが欧米、豪州や中近東に行きますと、羊は確かに放牧されていますが、殆ど野生状態で飼われているのです。夜になっても牧場、勿論、日中も牧場で牧草を食べています。 イエスと子羊 しかし羊は、とてもデリケートな家畜なので、羊飼いの世話を受けなければ、オオカミや他の食肉動物に襲われ、食べられてしまいます。そこで羊飼いたちは、彼らを守るため、放牧しながらも羊の安全を常に見守っているのです。
 春になると羊は、山に登っていき子羊を産みます。時に、子育て放棄する羊もいて、放棄された子羊は羊飼いに抱えられ下山し、羊飼いの家で大きくなるまで、ペットのように飼われます。
 今日の福音書の中でも、羊が羊飼いによって守られ、羊飼いによって導かれなければ生きていけないと言われます。羊飼いは一頭一頭の羊に名前を付け、その羊を我が子のように可愛がります。だから羊は、主人の顔、声、すべてを良く覚えています。また羊飼いは、羊一頭一頭をよく知っており、どのように導けばよいか、どうすればその羊が、羊にとって一番良い結果を生み出せるのかを心得ているのです。だから羊は、安心して喜んで羊飼いの後に従うのです。羊飼いと羊の間には、強い信頼関係があるからです。その羊たちに羊飼いは、永遠の命を与えます。羊と羊飼いの絆、それは父と子によって差し出された無償の愛であり、また羊を支える強い絆です。その羊である私たち、その私は、父と子にとって、この地上で一人しかいない唯一の傑作品であり、かけがえのない尊い存在なのです。 神に感謝 (松村 信也神父)


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