昭和時代(後期) 司祭名をクリックすると写真が表示されます

1945年(昭和20)8月15日、戦争は日本の国土と人の心を廃虚にして終わりました。サビエル離日直後から、カトリック教会に対して加えられた、長い、すざまじい弾圧の歴史の終えんでもありました。物質的には信者のだれもが極貧であったが、とにかく教会を建て直し、神の言葉を広く、深く宣べ伝えなければならない新しい時代の到来でした。ビスカラ神父在任の後半、共に働き、ビスカラ神父がカロリン諸島に向った後、1946年(昭和21)9月、主任司祭に就任のルイス神父の在任期間は、そのような時代だった。

  ルイス神父の指導で信者たちも、戦後の新しい活動を始めました。1947年(昭和22)暮れには、はじめて年末の街頭募金に取り組み、また近郊の農家から野菜を集め、敗戦の混乱の中で生活に困っている人たちに贈ったりしました。翌1948(昭和23)には、そのころ極端に不足していた衣料集めをして、同じく困っている人に贈ったりして、活動は少しずつではあるが活発化していきました。

 1949年(昭和24)5月、山口教会は再びドメンザイン神父を主任司祭に迎えました。
 ドメンザイン神父が主任司祭に就任して間もなく1949年(昭和24)6月2日には、サビエル渡来400年を記念する公式の式典が、教皇特使ギルロイ枢機卿を山口市に迎えて行われ、サビエル記念碑の復旧除幕式も行われました。

 ドメンザイン神父の業績として特筆すべきことは何といっても、サビエル記念聖堂の建設です。神父は山口に帰ってくると早速、サビエル渡来400年を記念する新聖堂建設のため、毛利家、山口市との交渉で、亀山の土地を買収しました。定礎式は1949年(昭和24)サビエル400年記念式典で来日した教皇特使ギルロイ枢機卿によって行われました。それから1952年(昭和27)10月26日の落成献堂式にいたるまで、設計、微細な部分にわたる聖堂内外の技術的設傭や、ステンドグラスなどにわたる同神父の苦心は、筆舌につくせないものがありました。この記念聖堂建設は、ドメンザイン神父の永久的業績となりました。

 1954年(昭和29)4月、ロペス・デ・ウラルデ神父は前述のように、主任司祭に就任しました。同神父は、それから5年近く、1959年(昭和24)1月まで12代主任司祭をつとめ、のちにまた1971年(昭和46)4月から翌72年(昭和47)9月まで、山口教会の16代主任司祭も務めました。

ウラルデ神父が長崎に赴任したあと、しばらくドメンザィン神父の、3回目の主任神父時代があり、そして1962年(昭和37)5月、トマス・リントホルスト神父が主任司祭に就任しました。
 同神父の山口での在任期間は、1970年(昭和45)2月までの約8年間に及びました。リントホルスト神父が山口教会に着任した年(1962年)の10月には、第二バチカン公会議が開幕した。公会議は1965年(昭和40)末の第四会期で閉幕しましたが、教会の歴史に残る重要な年でした。

 後任の主任司祭にはアルトーロ・チリノ神父が就任しました。在任期間は三次教会へ転任するまでの約1年2か月で、比較的短い期間でしたが、同神父は後に、1976年(昭51)から1981年(昭和56)まで、山口、島根地区長に就任するなど、山口の信徒にとっては、お世話になり親しみ深い神父の一人です。

 1971年(昭和46)4月、ウラルデ神父が、12年ぶりに主任司祭に再任となりましたが、翌1972年(昭和47)9月転任、後任の主任司祭にベネディクト・真田信男神父が着任しました。初の日本人主任司祭であり、神父は、就任に当たって「聖サビエル教会を発展させていくために、三つの要素が必要です。一、信者の一致 二、協力 三、神の祝福。私たちはイエズスさまの愛の教えに従って、寛大な心、謙虚な精神をもってお互いに努力しましょう」と、信徒に呼びかけました。

 1976年(昭和51)4月、真田神父は出雲教会へ転任、後任の主任司祭には助任司祭のホセ・アントニオ・デ・ルーナ神父が就任しました。デ・ルーナ神父は、後に山口市と聖フランシスコ・サビエルの出身地、スペイン・ナバラ県の首都パンプローナ市との、姉妹都市の縁結びに大きな役割を果たしました。

 1980年(昭和55)、デ・ルーナ神父は、お隣りの防府教会主任に転出し、後任には、アメリカ出身のジョン・クラークスン神父が就任しました。
クラークスン神父は、11年の長きにわたり主任司祭を務められ、この間、小郡サビエルハウスや山口カトリックセンターの整備を行われました。また、1889年を山口教会の「復起100年記念の年」とし、各種記念行事を行うとともに、翌1990年には復起百年史も刊行しました。