昭和時代(前期) 司祭名をクリックすると写真が表示されます

 イエズス会になって2代目のフランツ・レーフェルト神父は、1925年(大正14)に着任し、13年間の長い間、宣教と司牧に努めました。神父は教会を開放し、ピンポン台をつくったり、カルタ大会を開いたり、はねつきなどもして、若い人を教会に近づけるため、いろいろな工夫をしました。あごひげが長く、いつもパイプを片手にし、陽気でユーモアたっぷりの神父でした。
  スペインのトレド管区派遣の宣教師として、ドメンザイン神父が1938年(昭和13)8月、レーフェルト神父のあとの主任司祭になりました。ドメンザイン神父は1940年(昭和15)夏、スペインヘ出発、その後任として、ペトロ・アルペ神父が主任司祭に。アルペ神父は、長身で色白、柔和な顔の神父で、活発な宣教活動をして、いろいろな方法で山口市民、特に青少年と子供たちを教会に招き、布教の輸を広げました。

 1941年(昭和16)12月8日、日本は太平洋戦争を始めました。この開戦と同時に活発な宣教活動で憲兵ににらまれていたアルペ神父は逮捕されました。しかし、当然逮捕の根拠がないと判断され、釈放され、その後、神父は1942年(昭和17)3月、長束修練院の院長と修練長に任命された。

 この頃、日本の軍国主義化が急ピッチで進み、政府の激しい干渉で、教会はいろいろな試練と困難に直面しました。太平洋戦争が始まると、その苦難は頂点に達し、日本の敗戦までそれが続きました。開戦の時のクリスマスの夜半のミサは当局の要求でできなくなり、1942年(昭和17)の1月には全国の教会で必勝祈願をさせられ、だんだん防火用水や、防空壕の準備もしなくてはならなくなりました。司祭の外出はゲートル着用、シスターもモンペ着用になり、やがてミサ用パンに使用する小麦粉、ミサ用ブドウ酒にもこと欠くようになりました。神父も国民服の時代でした。

 1942年(昭和17)3月、アルペ神父のあと、アントニア・セルメニオ神父が山口教会の主任司祭になりました。同神父に続いて1943年(昭和18)1月、主任に就任のビスカラ神父の時代は、こうした戦争の真っ只中でした。一歩間違えば非国民、あるいは利敵行為として、たちまち捕らえられる時代であり、カトリック教会の愛の灯をともし続けるために、両神父の毎日の苦心は想像を絶するものがありました。