主日のメッセージ

 新型コロナウィルスの感染防止のため、とうとう広島教区でも公開ミサの中止が決まりました。そこで、皆さまがせめて家で、主日の福音を黙想し、お祈りするために、私たちの説教を書いておきましょう。助けになるかわかりませんが、よければ参考にしてください。

復活節第2主日
2020.04.19
復活節第3主日
2020.04.26
復活節第4主日
2020.05.03
復活節第5主日
2020.05.10
復活節第6主日
2020.05.17
主の昇天
2020.05.24
聖霊降臨の主日
2020.05.31

1601年 Caravaggio

1621年 Hendrick Terbrugghen

5th AD Mausoleo di Galla Placidia

Catacombs of San Calixto
(ROMA)

1303〜1305年 Giotto

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◆復活節第2主日(神のいつくしみの主日)ヨハネによる福音20・19〜31

 今日の福音の箇所は、2部に分かれていて、第1部には復活の主の弟子たちへの出現のありさま、第2部にはそこにいあわせなかったトマスへの出現のありさまが描かれています。
 トマスは他の弟子たちが主と出会ったと聞いて、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡にいれてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と、頑固に言いはります。トマスは闇の中にいました。仲間たちが喜びにあふれて、彼を説得しようとすればするほど、トマスの心は閉ざされました。悲しく、孤独でした。
 なぜトマスはそれほどまでに心を固く閉ざしてしまったのでしょう。トマスはもともと純粋な人でした。ヨハネ福音書の他の2箇所で、トマスが登場しています。一度は、ラザロが死んだことを聞いて、イエスがエルサレムに行こうとしたとき、他の弟子たちが恐れたのに、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言います。もう一度は、イエスが最後の晩餐の席上で「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ったとき、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14・4〜5)と言います。イエスのことを思い、一緒について行こうとした、トマスのまっすぐな心を、イエスは忘れませんでした。
トマスの疑い  ちょうど失われた一匹の羊を探す羊飼いのように、イエスは暗闇の中に冷たくうずくまっているトマスを訪ねてきます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。」
 十字架の上で亡くなられたとき、イエスのわき腹を兵士が槍でつらぬいたことは、ただヨハネ福音書だけが記しています。しかも、「すぐ血と水とが流れ出た」(19・34)と述べています。それは、指し貫かれた主のみこころから、教会が生まれたことのシンボルでしょう。
 復活の主はトマスに、このみこころに触れるように招いています。
 トマスは叫びます。「わたしの主、わたしの神よ。」それは、「あなたこそ私のすべて、私の喜びであり、いのちであり、あなたのほかに私の生きる意味はない」という、トマスの心の底からの信仰告白です。
ヨハネ福音書の著者は、ここで最後の2節に結びの言葉、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と記しています(ヨハネ福音書は元はここで終わっていて、続く21章は原著者の亡きあと、弟子か友人によって書き加えられたとされています)。私たちもトマスのような信仰をいただくことができますように。
(百瀬 文晃神父)

◆復活節第3主日 ルカによる福音24・13〜35

『ものを失った時に初めてそのものの価値がわかる』
 先ず、今日の説教を読む前に必ず4月26日の主日の福音(ルカ24・13−35)を読んでください。そして、続いてこのメッセージを味わってください。
エマオの晩餐  今日の福音書の中の24章30、31節に「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった・・。」と書いてあります。「パンを裂いてお渡しになった」ことはミサを表しています。
あの二人の弟子は、エルサレムからエマオに向かう長い道中で知り合った旅人(イエス)と長い距離を一緒に歩き、話し合ったり、議論しあったりしながらも、その旅人がイエスであることが分からなかった。しかし、今、単に「パンを裂く(ミサ)」という行為によってイエスとはっきり分かった。そして、この時二人の心の目は開かれました。
 新型コロナウイルスの影響によって、先週の日曜日ミサがありませんでした。そのことは、私に何とも言えない寂しさ、心の空虚さをもたらしました。きっと皆さんも同じでしょう。また、私にとって皆さんと一緒に捧げるミサがいかに大切であることを改めて悟りました。今まで当然と思っていた日曜日のミサの尊さを今まで以上に感じました。新型コロナウイルスによって盗まれてしまった毎日の生活の安心感、健康と命に対する安心感、外で歩くこと、友達と自由に接し、マスクなしに話し合ったり、笑ったりなど、その他多くのことを従来当たり前と考えていたことが急に全部奪われてしまったことを、更に気が付きました。そして、当たり前と思い意識もしていなかったことは当たり前ではなく、それら一つ一つは大きな恵みなのだと気がつきました。
 これから健康であること、自由に歩けることなど多くの事を恵みとして味わい、その一つ一つを神と周りの人々に感謝と喜びを示し、そして、それを生かして分かち合うことに努めたいと思いました。つまり、当然や慣れっこのような気持ちを一切捨てたいという心です。エマオの二人の弟子たちのような心を持って他の方々と感謝と喜びを分かち合い、ミサ無しの日曜日は寂しさだけではなく、このような状況の中には深い意味があることを味わいたいのです。
(ルイス・カンガス神父)

◆復活節第4主日 ヨハネによる福音10・1〜10

 復活節の第4主日は、「よい牧者の主日」と呼ばれて、毎年、ヨハネ福音書から、よい羊飼いのたとえが読まれます。善き牧者ヨハネ福音書の10章にはいくつかの羊飼いのたとえが出てくるのですが、おそらく主イエスがいろいろな場所で話されたことが人々に記憶され、ここに集められているのでしょう。
 今日の箇所でも、1)本物の羊飼いと盗人、2)羊飼いとその声を聞き分ける羊たち、
3)羊の門と盗人が作った穴、
という3つのたとえがたばねられています。
 当時のイスラエルでは、羊飼いが毎朝、主人の羊の小屋にいき、羊を連れ出して、よい牧草のある所に連れていくのが日常の光景でした。主イエスは皆が毎日のように目にしている光景をたとえにして、わかりやすく話します。
 主イエスは自分を羊飼いにたとえて、私たち一人ひとりを導いてくださること、一人ひとりを大切にして、危険から守り、豊かな牧草地に連れていってくださることを、やさしく語ってくれます。その声を聞き分けなさい、と呼びかけます。
 世の中には、より便利なもの、より快適なもの、見かけの豊かさや幸せなど、さまざまに惑わすものがたくさんあって、私たちを神さまへの道からそらせようとしているのではないでしょうか。毎日の祈りの中で、主キリストの声を聞き分けることが大切です。
 自分の体調がすぐれないとき、孤独に沈むとき、あるいは家族や仕事の問題で悩むとき、主がいつも一緒に歩んでくださることを思いおこしましょう。
 とくにコロナ・ウィルスの感染におびえている現代の世界で、主キリストがすべての悪の力に打ち勝ち、勝利をおさめておられること、私たちを必ず緑の牧場に導いてくださることを思いおこしましょう。
主の声に従っていくことこそが、私たちの真のしあわせです。その導きに従っていけば、人生の最終の目的地、天の牧場に連れていっていただけるのですから。
(百瀬文晃神父)

◆復活節第5主日 ヨハネによる福音14・1〜12

 新型コロナウィルスの猛威がやや沈静化に向かっていますが、まだまだ注意深く対応しなければならず、今日も教会のミサに参加できません。今日のミサの福音を読み黙想し、教会と心を合わせて苦しむ多くの方々とともに祈りましょう。
 今日の福音はヨハネ福音書14章です。その前の13章から主の受難物語が始まります。13章ではイエスが弟子たちの足を洗い、また新しい掟である愛の掟を与えられました。そのとき、イエスは弟子たちに「私が行くところにあなた方は来ることが出来ない」と言われました。これを聞いて弟子たちは動揺します。イエスが大きな艱難に巻き込まれるのでないか、自分たちから離れていくのでないかと思ったからです。それを受けて、イエスは「心を騒がせるな」と弟子たちを慰められます。私たちも様々な困難に直面して、イエスを見失い神への信頼から外れていこうとしがちです。このような私たちに、励ましと慰めになるイエズスの言葉でしょう。
今日の朗読個所の始めと終わりに、「父である神を信じなさい、私をも信じなさい」とイエスは弟子たちに語り掛けます。何を信じるようにと言われるのでしょうか。
 十字架の受難に向かって歩まれるイエスは、弟子たちから離れて「行く」と言われます。イエスにとって、死は人生の終わりではないのです。十字架の死は御父にご自身を委ね、神の国の扉を開くことなのです。私たちのために神の国に「場所を用意するために行く」ので、私たちのために「場所を用意したら、戻ってきてあなた方を迎える」のです。そのとき、私たちは本当に「イエスともにいる」ことになります。そのために弟子たちから離れて「行く」と言われるのです。だから、イエスの十字架の死は神の国に向かう「道」でもあり、弟子たちや私たちを御父のもとに連れてゆく「道」なのです。受難と死は神と私たちとの間を結ぶイエスの「道」であることを信じるようにとイエスは励まされます。
 イエスは「道であり、真理であり、命である」といいます。イエスの死が御父に受け入れられ、復活の永遠の命に生かされます。そして、私たちもイエスとともに御父の永遠の命に包まれます。創世記1章には、私たちも世界も神から創造されて、神が「そのすべてをご覧になったところ極めてよかった」とあります。私たちは恵みの器として創造されました。そして、命であるイエスと共に十字架の死と復活を通して、神の永遠の命へと生かしなおされるのです。私たちは毎日の生活の中で出口の見えない困難に出会い、人生の終わりである死を迎えます。しかし、困難の出口が見つからなくても、死が確実に来ても、それが終わりではないこと、イエスの道を通して、確かな命に至る希望を信じたいと思います。 イエスは「私が父の内におり、父が私のうちにおられる」と言います。御父の姿と想いは私たちに見えず、なかなか感じとれません。しかし、イエスが多くの病人を癒し、多くの人たちに語り掛け、罪びとを許し、人々を励まし強められたこと、それらイエスのすべてに御父の想いと願いが込められており、イエスのうちに御父の力が働いておられるという事です。 一番信じたいことは、イエスが弟子たちの足を洗い、ユダの足も洗われたこと、また、今も私たちの足を洗い続けておられます。そのイエスの慈しみに包まれることを信じたいことです。
 私たちは今、日本でも世界でも大きな困難の中にいて、悩み苦しんでいます。私たちは、キリストが永遠の命をもっておられると信じていますが、心を騒がせることが多いです。ともに歩んでくださるイエスが見えなくなることも多いです。トマスとフィリポがイエスに訴えるように尋ねていますが、私たちも「主よ、私たちはどこに行くのかわかりません」と尋ねることがどれほど多いでしょう。しかし、イエスは私たちにも「心を騒がせないように、信じるように」と励ましておられるでしょう。出口のないような困難な状態でも、イエスは必ず希望と命があるからともに歩こうと、私たちを包んでくださるのでしょう。
 多くの人たちとともに、イエスの方に顔を向けて尋ね、励ましを受けることが出来ますように祈りましょう。
(外川直見神父)

◆復活節第6主日 ヨハネによる福音14・15〜21

 復活節の第6主日では、先週に引き続きヨハネ福音書から、最後の晩餐の席上で主イエスがなさった別れの説教の一部が読まれます。 今日は、聖霊降臨の主日が2週間後に近づいているため、主が聖霊の派遣を約束される箇所が選ばれています。
 ここで、聖霊について「弁護者」という言葉が使われています。弁護者(原語のギリシア語では「パラクレートス」)とは、当時の法廷の用語で、裁判の席で被告を弁護する役割の人を意味していました。ヨハネ福音書だけに出てくる言葉ですが、おそらく福音書を生んだ共同体が置かれていた立場を反映しているのでしょう。その共同体は、1世紀の末、ローマ帝国内でユダヤ教から破門され、四方八方から迫害され、統治者の前に訴えられ、裁判にかけられ、処罰を受けるという、苦しい状況に耐えていました。  しかし、どのような試練にあっても、復活の主キリストはいつもご自分に従う人々とともにあり、だれも反論できないような知恵と勇気を与えてくださる、という約束です。
 ちなみに、復活の主キリストが一緒にいてくださるということと、聖霊が与えられているということとは、同じことです。つまり、聖霊は、すでに旧約聖書の中で神さまの森羅万象を生かす働きとして、また特定の人に民を導く使命と力を与える働きとして、ひんぱんに述べられています。そして、新約聖書の中でも、イエスが聖霊によっておとめマリアから生まれ、聖霊に導かれて力のわざを行い、聖霊に支えられて受難と死を通して世にいのちを与えると言われます。しかし、キリストの死と復活を通して私たちに約束される聖霊は、とくにイエス・キリストと私たちを時間と空間を超えて結ぶ働きとして、救いの歴史の中で聖霊の働きのいわば新しい局面として強調されています。復活の主の臨在と聖霊とは区別できないし、あまり拘泥しなくてもよいと思います。
 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と、主キリストは宣言しておられます。確かに、人生にはさまざまな試練がつきものです。とつぜんの病の発覚であったり、仕事や人間関係の挫折であったり、加齢にともなう心身の衰えであったり。しかし、私たちは、どのような試練にあっても、両親にはぐれて一人ぽっちで途方にくれている子どものようにはなりません。
 コロナ・ウィールスの蔓延という、これまで経験したことのないような異様な事態にある世界ですが、こういう時にこそ、私たちは主キリストがともにいてくださるという約束を思い起こしましょう。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。すなわち、主キリストのいのちは私たちを生かします。ちょうど草木が太陽や雨を受けて日々たくましく成長していくように、私たちも神さまの恵みをいただいて、神さまが愛してくださる者として成長していきますように。
(百瀬文晃神父)

山口教会では、公開ミサが5月24日(日)から始まりますので、このページは残念ながら休止(?)致します。ご購読ありがとうございました。


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