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 殉教者ダミアンについては、詳細なことは分かっていません。ここでは、フーベルト・チースリク「信徒使徒職の鑑 山口の盲人ダミアン」(1988年祈祷の使徒会)、品川勝郎(フーベルト・チースリク)「盲人 ダミアンの殉教」(1981年「聖心の使徒」9・10月号)の両文献を参考にしてまとめたものをここに記述しています。なお、挿絵は、上田理恵さんによるものです。上田さんにはここに感謝の意を表します。

 ダミアンのプロフィール 

出身:1560年頃堺で出生 日本名は不詳
洗礼:1586年頃 25歳で山口で受洗
霊名:ダミアン
殉教:1605年8月 現山口市椹野川(ふしのがわ)河岸近くの一本松と言われている場所で処刑


 当時の盲人琵琶法師 

 当時の慣わしとして、琵琶を習い昔の物語りなどを歌いながら生計を立てていた。物語は、浮世のはかなさを語る平家物語などがある。ダミアンについては、当時は日本におけるよりも外国で有名であり、イエズス会の報告等により司教セルケイラがローマに詳しく報告をしている。


 当時の日本におけるキリシタン情勢 

 1567年頃フロイス神父は堺でクリスマスの祝いを盛大に催した。当時ダミアンは7歳くらいであったと思われるが、このクリスマスの祝いにはキリシタン武士も70名くらい参加し、町中の評判になったので、ダミアンもこの話を聞いていたと思われる。
当時の日本におけるキリシタン情勢  当時、毛利の家臣であった黒田孝高は1584年に高山右近の感化を受け熱心なキリシタンとなり、霊名をシメオンと言った。
 1586年10月に黒田孝高は毛利輝元や伯父に当たる小早川隆景に会い、毛利領内に三箇所(山口、下関、道後)にキリスト教会を建てるように進言し、その承諾を得た。その結果、サビエルの時に与えられ、その後破壊されていた大道寺跡とその周辺を返してもらったといういきさつがある。
 その後1586年10月にモレイラ神父が山口へ行きイエズス会のレジデンスを創設し1567年7月末までに、大道寺跡には三階建ての教会や司祭館が建てられて、活発な宣教活動が始まった。小西行長の世話で30名以上にのぼる、司祭や神学生、修道者が山口に集まり山口のコレジョが発足した。この時期は、山口の教会が最も勇ましく栄えた時期ではなかったか。しかしこの情勢は長くは続かなかった。1587年7月24日突如として、豊臣秀吉の伴天連追放令が発せら、以後、山口教会は閉鎖、イエズス会士全員は平戸へと退去した。
セミナリヨの様子  この頃、外国人宣教師は言葉の壁にも阻まれていた。従って、福音宣教はもっぱら邦人修道士あるいは同宿(伝道士)に一任されていた。同宿は大抵セミナリヨの卒業生で、一種の神学課程を終え、伝道士の資格を持っていた。彼らは皆誓約を立て、独身で剃髪し、紺色の道服を着て教会に住んでいた。彼らの生活費も、教会が負担していた。
その他、巡回教会には(看坊)がいた。彼らは聖堂を世話し、司祭のいない時は、祈祷会を指揮し、子供に洗礼を授け、病人を見舞い、死者の葬儀を行った。彼らは結婚をしており、その生計の一部は教会が負担し、残る一部は当地の信者、あるいは彼ら自身が営んでいた農業によって賄われていた。
 ダミアンはこのような(看坊)の仕事を行い、神父の留守を守り、神父の代理として信者を導き、長く続く弾圧の間、山口の信者を守り支えた教会の中心人物であった。


 ダミアンの授洗  ダミアンの受洗

 1587年7月末頃、イエズス会の神父や修道士全員が山口を立ち去った。その1年ほど前の1586年頃に、ダミアンは山口で彼らから洗礼を受けたものと思われる。当時、ダミアンは25歳であった。


 ダミアンの才能と情熱  ダミアンの宣教

 ダミアンは、記憶力抜群で盲人独特の鋭敏な神経と触覚、智恵で群を抜き日本の歴史や故事、昔の物語、また他宗派にも通じ、琵琶法師として諸侯諸官とも親密にしていた。このような時に改宗し洗礼を受け、霊名ダミアンと称し活動を始めた。異教徒達や僧侶達は彼の改宗を大変残念がり、それまで彼に施してきた生活費としての喜捨を中止した。しかし山口のキリシタンは彼が不自由をしないように、皆でダミアンを援助した。ダミアンは、時には、他の信者が彼を引き止めねばならぬほどに、積極的に福音宣教に励んだ。


 ダミアンの宣教 

ダミアンの宣教  この頃、奉行三名とその町の者100名余の者が洗礼を受けた。神は、山口で盲人ダミアンを以って宣教師の代理としてその不足を補い給うたのである。彼は機会あるごとにたゆまず伝道し、1590年には山口で110名の者に洗礼を授けた。
アレッサンドロ(ヴァリニャーノ)神父がインドから来航されたのを知ると長崎まで出かけて神父に会い、告解と聖体の秘蹟を受けた。その道中、筑後の国にマセンシアを訪ねて23名に洗礼を授け、筑前においても多数の者に洗礼を授けた。
マセンシアとは、大友宗麟の女で1587年毛利元就の9男秀包(毛利輝元の叔父)と結婚した。秀包もその前年に山口で洗礼を受けシモンと言う霊名を受けた。彼は秀吉から久留米領を与ったが、伴天連追放令およびキリシタン弾圧、毛利一族の反対にもめげず、忠実に信仰を守り続けていた。


 ダミアンの宣教における逸話 

ダミアンが情熱的な宣教を続けるに間には、いくつかの逸話があった。これらの逸話は、1587年:グスマン「東方伝道史(新井トシ訳)の中に詳しく述べられている。
1.仏像について小姓との論争する
 ある寺院に於いて仏像について奉行の寵愛する小姓と論争が起こり、激した小姓が刀を抜いてダミアンに切りつけようとした。同行のキリシタンが小姓を押さえて刀を取り上げた。小姓は屈辱に思い奉行の元に行きダミアンを罵倒した。奉行はダミアンを呼びことの次第を聞いた結果、小姓の側に罪を認めて暇を取らせた。
2.人肉の臭い
 異教徒の婦人達がキリシタンを馬鹿にしようとして、神父館に入り、「人肉を焼いた臭いがする」と言うと、ある青年がそれについて相槌を打った。これを聞いたダミアンは立腹し、青年の手をつかみ穴に入れて、大声で「火をつけてくれ」と叫んだ。そして「人肉を焼けばどんな臭いがするか分からせよう」と言った。婦人達と青年は自分達の不敬をわびて以後神父館には立ち入らないと約束をした。
3.僧侶との論争
僧侶との論争  山口の住院(大道寺跡の教会)の前に僧侶の僧房があり、しばしば説教の集まりがあった。神父達が退去した後(1587年伴天連追放令以後)、僧侶達がキリストについて暴言を吐いたと聞いたダミアンはその説教の集いに行こうとした。ダミアンの情熱を知っている信者達は騒ぎが起こらないようにと、しきりに引き止めた。しかし、ダミアンは聴衆にまぎれて参加した。それを目ざとく見つけた僧侶はダミアンを外へ連れ出そうとした。ダミアンは大声で「説教は隠れてするものではない、総ての人に聞かせるためにするものだ、もし私が救済を望んだならばどうして邪魔をするのか、もし私が貴僧の宗派に入信したいと言えばどうするのか」と言った。それでも外に出されたダミアンは戸をたたき続けた。ようやく、中に入れられたダミアンは「何故デウスの悪口を言ったのか」と正した。それから、僧侶との論争が始まった。僧侶はダミアンの理論に完全に説伏され、次の質問が出来ぬまま、説教もやめて立ち去った。 ダミアンは「デウスの悪口を言う者はいつでも説伏してやる」と言った。以後異教徒達は悪口を言わなくなった。そのような状況の中で、ある宗派の博識の僧侶がダミアンを説伏しようと、度々ダミアンに論争をいどんだが、返ってダミアンに説伏され改宗し遂に洗礼を受けた。
4.悪魔つきを癒す
 ある悪魔つきの病人を抱えた親や親戚が、あらゆる治療を施したが万策尽きていた。そのような折、キリシタンであるマチアスの息子が、「私の家のくすりをつけたらすぐに治るだろう」と言った。この「薬」「聖水」のことであった。そこで、それを試すために、ダミアンを招き、デウスの教えを願った。ダミアンが入ると病人は庭の方へ逃げようとしたが、親戚はこれを押さえた。ダミアンは近づき、聖水を注ぎ信経を唱えた。とたんに病人は意識を失い死んだようになった。しかし、しばらくして蘇生し、悪魔は退去した。これを機会に、病人を初め親、親戚など70名もの人々が、皆ダミアンの話を聞き洗礼を受けた。


 ダミアンの殉教 

 1605年8月14日の朝、萩の熊谷元直(霊名メルキオル)は毛利から切腹を命じられた。キリシタンとして自害を拒否したので一族11名と共に処刑された。萩城の普請奉行であった熊谷元直(霊名メルキオル)は砂利盗難事件に名を借りて、キリシタン迫害の槍玉として処刑されたものである。
 熊谷元直殉教の日より4日後の1605年8月19日萩から役人奉行二人が山口に来た。熊谷元直の屋敷を没収するためにに来たのである。到着するや直ちにダミアンを呼び出した。ダミアンは帰宅してこの呼び出しを聞くや、直ちにキリシタン処刑のためと察し、妻にこのことを告げて死の準備に取りかかった。それはまるで、お祝いで祭りにでも出かけるようであったと言う。即ち、体を洗い清潔にして、一番良い衣服を身に着けて、二人のキリシタン信者と共に熊谷の家に行った。 ダミアン尋問される 下役達は二人の信者を玄関に待たせ、ダミアンだけを奥へ通した。後に、下役らの話によると、奥に入ったダミアンはさまざまな手段で改宗を迫られたが、きっぱりと断り、却ってデウスの話を奉行にしたようである。改宗の見込み無しと見た奉行は毛利の命令どうり、ダミアンを処刑するように刑吏に命じた。玄関で待っていた二人の信者には、まだ長くかかるからと家に帰し、刑吏はダミアンを馬に乗せ松明を灯して、用があるから湯田の方へ行くと言って馬を進めた。讃井(サナイ)の辺りまで来ると、ダミアンは盲人でも、この辺りの地理には詳しいので、湯田へ行く道をそれて一本松の方へ向かっているのに気づき、私は盲人でも、この辺りの地理にはくわしい、私を一本松の刑場に連れて行き、処刑しようとしていることは判っている 。 讃井の一本松へ連行される 私は信仰のために死ぬことは大きな喜びであるから、怖くはない、真実を話してくれ、理由は何かと尋ねた。刑吏は処刑する事実を話し、理由は毛利が神父を追放した後も、神父の代わりになって任務を引き継ぎ、説教をし、信者を導き、キリシタンの中心となっているからであると言った。その話を聞くと、ダミアンは直ぐに馬を降り、信仰のために死ぬことは大きな喜びである。死ぬ前に祈りをし、死ぬための準備をさせてくれと頼んだ。大きな声でラテン語ではないかと思われる祈りをし、その他いくつかの祈りをし黙祷をした後に、従容として首を差し出した。話によれば、刑吏は首を切る前に刃を首にあて、三度改宗を進めたがダミアンは堅く断り、早く命令を果たせと言ったという。
 ダミアンの死後、刑吏はダミアンの体をバラバラに切り刻んで、川の中に投げ捨てた。これは毛利がキリシタンの処刑を、他人に知られないように強く望んだためである。
ダミアンの処刑  一人のキリシタン信者が、たまたま外に出ており、ダミアン一行が通るのを見て、これは処刑のためと察し、翌日にダミアンが帰宅していないの知ると、他のキリシタン信者にも告げて、翌朝、刑場に出かけて捜索し、遂にダミアンの衣服と首と一本の腕だけを発見した。ダミアンの首と腕は鄭重に仮埋葬され、この事実は早速に、広島のコーロス神父に報告された。神父は、更に詳しい調査を二人の信者に依頼し、ダミアンの遺物を持参するように命じた。コーロス神父は長崎へ行く途中、小倉に留まりそこで先に山口へ派遣したクボタ・レアンと落ち合い、山口へ行くことを断念して、ダミアンの首と腕を受け取り長崎へ赴いた。 クボタ・レアンは山口で得たダミアンの情報(誓いの下で行われた証言の記録、首を切った刑吏の証言等)を持ってきた。コーロス神父は、熊谷元直とダミアンの殉教の真相が判明するように、セント・パウロと言う権威あるキリシタンを山口へ派遣した。

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