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ヨハネ14章1節  琵琶法師ダミアンが列福するにあたって、当時の琵琶法師の役割がキリシタンの布教にどのように影響を与えたかを調べてみました。ここに記述したことは、イエズス会日本関係資料研究会報告の中でホアン・ルイズ・デ・メディナ師が発表されたものを元にしています。
 メディナ師は、研究報告の冒頭で『琵琶法師の関わりを研究する事によって、室町時代から江戸初期にかけて日本に来たヨーロッパ人が日本の社会をどのように捉えたのかを知る手掛かりになり、彼らは、琵琶法師による説話の朗詠と音楽についてを、どのように書き記しているかを考察する』と述べています。当時の琵琶法師のあり方、キリシタン宣教師との関わりを知ることによって、後に、堺から山口に来た琵琶法師ダミアンの生き方の一端をうかがうことができるのではないかと思います。

 琵琶法師の定義 

ルイス・フロイスは琵琶法師の簡略な像を描いている。

「われわれ(ヨーロッパ人)の間では、貴族はヴィオラを弾くことを誇りとしている。日本ではヨーロッパの手廻し風琴を弾く芸人のように、それは盲人の仕事になっている。・・・・坊主は楽器を奏すること、歌うこと、武器を使うことなどを教える」

また、琵琶の演奏を物語と組み合わせることは、京の宮廷で13世紀頃には確立していた(亀山天皇の子、後宇多天皇(1275〜1287)頃)。必ずしも盲目であることは琵琶法師の称号を得る必要条件ではなかったが、明らかに公家層の芸能を後援しようとする熱意のおかげで、盲人はかなり水準の高いグループを形成していた。その中でも技量の優れた者が、「検校」という名誉ある別称が与えられた。検校は、本来は宮廷の官吏や仏寺の役職に与えられる称号であった。ここで、再びルイス・フロイスは、

「五畿内の領主らは慣習として、屋敷に一人の盲人を抱えているが、それは二つの目的のためである。一つは、彼が歌い楽器を奏でて日本の古い物語を語るのを聴いて、楽しむため。二つ目は伝言を持たせて外へ遣わすためで、盲人たちは一般的にとても慎重で交渉事に適しているからである」

と述べている。


 宣教師と琵琶法師の邂逅 

 当時の琵琶法師の普及の度合いを考えると、ザビエル、コスメ・デ・トルレスやファン・フェルナンデスと日本の流浪の楽師との出会いは、すでに1549年、薩摩藩の主要な港である鹿児島の町で起こっていたと思われる。1551年の春、山口ではザビエルが日本で最初の教会に作り変えたという大道寺に、ほとんど盲目の琵琶法師了西(平戸島の白石村で1525年に生まれた)が現れ、ザビエルたちはこの琵琶法師が伝道活動にとって重要な役割を担っていくことを見抜いた。その直感は的中し洗礼を授かり、「ロレンソ」という名を得て、伝道所に留まり修道士と一緒に生活を共にして、宣教や公教要理におき、彼らを助けた。
1555年頃、了西ロレンソは初めてイエズス会のイルマンの服を身に着けた。1593年にメルショール・デ・フィゲイレドは彼の死をイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに次のように報告している。

「日本人のイルマン・ロレンソは、生来の才能と能弁と、それにみすぼらしい肉体をもった人物で、カテキズムでもまた普段の説教においてもすぐれた説教者であることが判明した・・・。ロレンソの宣教により改宗したキリシタンとなった日本人の貴族は、その受け入れた信仰を賛えてこう言った『私が神の教えを真実のものとして受け入れた主な理由の一つに、神がロレンソの宣教の言葉に与えた光輝と恩寵がある。というのは、人間として言えばロレンソのように世間では身分が低く取るに足らない者の話や意見に私が従い、自分の一生をあずけることになるなど、ありえないからだ。』」

 このようにロレンソは、宣教者たちの完全な信頼を得た。ザビエルの時代から山口の修道士らと生活をともにしたのは、平戸のロレンソのみではない。後代の記録によると、トビアスという8〜10歳位の子供がおり、「子供のときからカーザの中にいた」とされている。これはイエズス会士と一つ屋根の下で暮らした事を指している。フロイスによるとトビアスは琵琶法師ロレンソキリシタンとしての最初の弟子であったと記している。
 このように宣教者と琵琶法師は強いつながりを持ったことがうかがえる。


 教会内外の音楽のあり方 

 日本にやってきたヨーロッパの宣教師らは、豊かな伝統のある典礼を寺院の内外で人々の心に届くようなメロディーの形で携えてきた。これらのメロディーは日本人には耳慣れないものであったが、初期教会の中では最初から好評であった。1552年に日本で初めて、山口の教会で挙げられた最初の歌ミサは降誕祭のミサであったようである。しかし、ヨーロッパの音楽と当時の日本の音楽には演奏法や発声法など多くの違いがあった。幸い、自分たちの伝統を失わないままに新しいものを取り入れるという日本人の気質が、音楽においても革新への道を開いた。
 コスメ・デ・トルレスは了西ロレンソとの日々の交わりのうちに、この民衆の音楽により、神話も世俗の物語も、世代を越えて忠実に伝承されていることに気づき、それを利用した。つまり、日本語に翻訳された福音書などを、さらに聖書の叙述の韻律を整える仕事を行った。これは、聖書の普及はまずは口頭でなされるのが普及の第一歩と考えられたからである。現地の音楽を取り入れることで、聖書のテキストが新しいキリシタンの記憶にも心にもよりよく浸透したようである。
 このように、韻文を用いた劇的手法の導入は、日本のキリスト教史の初期から導入された。初めは山口で、のちに豊後で、音頭をとったのはコスメ・デ・トルレスであった。
盲人は視力の不足を補って、うらやむべき記憶力と、琵琶の音色と声を用いて他人とコミュニケートする能力を持っていた。新たにキリスト教徒になった人々は、歓迎する雰囲気の中で自発的にその歌や音楽の能力を教会で発揮するように促された。そのような中で、キリスト教の教義に興味を持つ一人の盲目の琵琶法師が登場した。その結果は福音伝道のための新たな琵琶法師の獲得であった。そして、琵琶法師らの説教は庶民の中から大勢の改宗者を出したが、庶民ばかりではなかった。
 ポルトガル人のガスパール・ヴィレラは、ベネディクト派修道院で幼いときから典礼の儀式と声楽の専門教育を受けた。1556年ヴィレラは日本に到着すると、まだ日本語がわからなかったが、すでにイエズス会士となっていた了西ロレンソの歌う物語詩を聞く機会を得た。1559年の9月からの京都への宣教また1561年の小礼拝堂建立の際にロレンソを伴っている。この二人の声に導かれて、キリスト教の教義に興味を持つ盲目の琵琶法師が登場した。ヴィレラはこの人に洗礼を授け、ホセ(ヨセフ)という名を与えた。
 このような琵琶法師らの説教は、庶民の中から大勢の改宗者を出すことになったが、それは庶民のみにではなかったようである。


 盲人の組織 

 この時代の盲人について、一般的にかれらの人生は、それぞれの家柄の状況によって決定されていた。低い身分の琵琶法師は人々の善意によって頼っていきていたが、琵琶を奏でて物語詩を歌う盲人は、16〜17世紀の日本の社会に受け入れられた不定期労働者であった。琵琶法師の組織について、ルイス・フロイス他数名が次のように書き記している。

日本では盲人は高く評価されており、古くからの法や特権により盲人の間で一種の君主制のようなものが形成されている。この君主制において、盲人たちは何段階にもわたる位を持っており、能力とこの全員のかしらである盲人の引き立てに応じて、その位を得、昇っていくことになる。彼らはこれらの位を授けるために試験をし、最適な位を与える。また自分たちより下位の盲人を統率している。この最高の位(検校)を得た者は、日本中の領主と同じように名誉ある場所に出入りすることができた。そして、検校は多くの他の盲人を弟子として抱えていた。

 殉教者となった琵琶法師たち 

 宣教師らが書翰で触れている盲目の宣教師らは、多くの場合匿名であることを示唆したが、これらの教会の福音活動に優れて貢献した琵琶法師の中には殉教の栄光に浴したことが確認されているものもいる。その中には、1605年8月19日山口で四つ裂きにされ、殉教した堺の琵琶法師ダミアンがいる。


 迫害の中での琵琶法師の活動 

1614年2月に徳川秀忠が発布した最終的な追放令によって、キリシタンに対する追及は全国に広がり、いくつかの地域では殉教者の列が終わりなく続いた。このような状況下で、修道士や同宿による非合法の布教が続けられ、特筆すべきことに、新たな改宗者もあった。そのかなりの部分が盲目の伝道士の、以前享受していたような自由が常に保証されていたわけではないとは言え、特権的な条件に負うところが多かった。


引用文献:ホアン・ルイズ・デ・メディナ「キリシタン布教における琵琶法師の役割について」(翻訳:安達かおり)東京大学史料編纂書研究紀要第11号(2001年3月、P.172-P183)

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